ナチス時代のバイエルン
本来、バイエルンの人々はカトリック教会と君主制を信奉していたが、1933年3月5日の総選挙では、バイエルン住民の43%がアドルフ・ヒトラーをドイツ帝国宰相に選んだ。その結果、ナチスの「均等化政策」によって、それまで独立国家であったバイエルンは、ドイツ帝国の単なる一行政州に格下げとなった。
今日でもバイエルンの各地で、ナチス独裁時代の記憶が残存する。ミュンヘン郊外のダッハウには、初めての強制収容所が建設された。当初は政治犯や被差別民が、何ら判決もなく強制収容された。後になるとダッハウ収容所は、数多くの外部作業場を擁する強制労働所となり、諸国から移送されて来た捕虜や囚人が、軍需工場での強制労働を強いられた。
ニュルンベルクはナチスの「党大会」の本部となり、ミュンヘンは「ナチズムの首都」となった。ベルヒテスガーデンの後方山地、オーバーザルツベルクの山頂には、「ベルクホーフ」と呼ばれるアドルフ・ヒトラーの別荘があった。
ドイツを制圧した連合軍は、1946年より、ナチス政権の首謀者を、ニュルンベルク戦争裁判にかけた。ベルクホーフは1946年に爆破された。1999年より、オーバーザルツベルク資料館では、常設展として、「オーバーザルツベルクとナチス独裁の歴史」を公開している。
戦争と軍事独裁の体験、民族浄化やナチズム支配への反省にもとづいて、1945年以降のドイツでは、民主主義による再出発への決意、犠牲者への償い、民族間の和解などが前面に掲げられた。1946年に制定されたバイエルン憲法の前文には、次のようにある。「神なく、良心なく、人間の尊厳への敬意なき国家社会主義体制がもたした荒涼たる廃墟を前にし、第二次世界大戦の生存者は、次世代のドイツ人男女に平和と人間性と正義の恵みを恒久的に保障するため、ここにバイエルンの市民として...以下の民主憲法を定める。」